「読書」を「する」とは

悪者や敵はやっつけられるべきでありそれがあまりにも自明のことなので「やった、よく言った!」という反応が多くても疑問を感じない。これが勧善懲悪の物語になれた人間が多数派をしめる、不寛容社会である。
勧善懲悪の物語といっても何もいわゆるフィクション作品にかぎらない。日々のニュース。ネットの書き込み。誰かの意見。などなど。

差別はいけないことだ。
では、なぜいけないんだろう?
アジア人だからという理由で虐待されるから。飛行機からおろされるから。侮辱されるから。生活できなくなるから。怪我をするから。困ったことになるから。いやな気分になるから。実害がでるから。
それら、「差別によって引き起こされる悪いこと」が悪いので、だからその原因である差別感情は排斥すべきだ、となる。
しかしここで考えなければいけないのは、その先に「小人症の人間を見世物にするなんて許せない」という人権意識が、彼らから仕事を奪った、という出来事がある、ということだ。

是か非かという二元論、どちらが善でどちらが悪かという二項対立的考え方。
そうではない、を感じたときの宙ぶらりんの気持ちはひどく居心地が悪い。「つまりどういうことなの」「結局、何が(誰が)悪いの」と思いたくなる。でもほんとうは、その宙ぶらりんの気持ち悪さに耐えて、じっとそれを、見つめなければならないのではないだろうか。取りこぼしていた何かが、見えてくるまで……。

少し立ち止まって「なぜそうなのか」を考えなければいけない。なぜか。自分の考え方がエスカレートするのを抑え、間違いを調整し、ときには変更を加える、そういう作業がいるからだ。なぜそうしなければならないかは、いまさら私なんかが言うまでもなく、過去の事件や事故、出来事、歴史が物語っているんじゃないか。そしてそういう力を養うのが、読書という行為なのではないだろうか。

ふと、そんなことを考えました。

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