全体ではなく部分の話

感性というほど大仰なものではないのだけれど、感覚器官がブワーッと開く感じが、するときがある。毛穴か、真夏の汗腺みたいに……。

そういうのは、ほんとにふとしたときに訪れる。言葉が脳内に迸る(おもしろいとは限らない)。さあ書こうとすると頭で考えたものになる(つまらないとは限らない)。

小説を書くということは、たしかに創造であるけれど、感性一辺倒ではないところがある。衝動的な行為である一方で理性的なものでもある。文章を破綻しないよう構築したり、話として成立するよう構成したりするわけであるから、「頭」を使って「考え」ることも、当然だけれど必要なんだろう。だから私はこれからも「あー、感性が開くあの感じ、あの衝動こないかな」と思いつつ、うんうん唸りながらパソコンの前に座るのだろうな、と思ったのであった。

「文学」という言葉はなんとなく避けてしまうのは、その言葉の持つ意味の重さや大きさを自分などには扱いきれないというような、一種の怯えみたいなものがあるのかもしれない。私はまだそれを、わかっていないし、これから先もわかるのか、わからない。

ただ、「書くこと」や「考えること」に執着するのだろう。業が深い。

煩悩。煩悩。

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