考えること

​子どものころから考えることが好きだった。

ひとりでいる時間が長かったから、考えるよりほかにすることがなかった、ということなのかもしれない。

ものを考えること、ひとにものを教わることも好きだった。学校は苦痛だったが先生は好きだったし授業はおもしろかった。本を読むのも……どうだろう、好きだったんじゃないか。やはりひとりで黙々と読んでいられる状況だったからかもしれない。

そんなことを思い出した。

この前、『もう半分』という落語を聴いた。自分が聴いたのは柳家小三治さんのものだ。これは怪談話であり、げらげら笑えるものではなかった。なかったけれども、私は好きだ。これを聴いて、以前どこかで似た話を読むか聞くか見るかしたことのある気がした。検索してみると小泉八雲『怪談』「子捨ての話」、夏目漱石『夢十夜』「三夜」という文字列が出てきた。便利な世の中だと思った。
語り継がれた話とか、材を取っただとか、翻案とかオマージュとか、話が似るのにはいくつかの理由があると思われる。口承で語り継がれてきたものが、神話になり怪談になり、それをもとに落語がつくられたり小説の題材にされたりということがあったとしても、今さら驚くにはあたらないだろう。

こういう系譜もひとつの繫がりであるが、話と話、小説と小説、本と本といった繫がりは、ジャンルやテーマの他にも様々な繋がり方があると思う。

別々だったものが、頭の中でバチッと繋がった瞬間のその興奮を、他の人にも味わってほしいと、いつも思う。

それがなにかの役に立つというわけではないけれど。

文学研究や民俗学などによる「ただひとつの正解」でなくてもいい(それも興味があるけども)。自分の頭で考えることが好きなので、好き勝手に考えていきたいと思う。

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