司馬遼太郎『活字の妖精』

……小説を書きましょうと思いたって早々は、どんか作家でも、十九世紀以来、名作の累積によってできあがった小説の概念や価値意識の重圧からのがれられるものではない。自分の中のそういう”文学論”の概念化したものが、たえず机のうしろからのぞきこみ、冷笑し、いちいち口やかましく点検する。それをこけにして、自分の自由をわずかでもひろげられるほど──そうせねば小説など書けないが──人間はずうずうしくなりにくい。

ここにあるように、私もそういうモノに怯えて書けないでいる。けれど、私自身にも、そこを乗り越えるためのブレイクスルーが必要だと考え方ている。

そんなとき、この文章に出会った。

 もし山中を歩いていて、活字のオバケに出会ったとする。

「ここに白い紙の束がある」

とオバケがいう。紙の束をパンと叩いて、

「なんでも思ったとおり書いてもいい。駄作でもいいし、悪作ならなおいい。へのへのもへじ、と書いてもいい」

といってくれるような夢想を、作家ならたれでも持つに違いない。

そして冒頭へと繋がる。

質が悪くていいから乱造しろというのでもない。心に重くのしかかる、200年ほどの歴史(たった200年、されど200年)、その重圧から、いっとき解放されて、思うままに書いてみたいし、ほかのひとにもそうしてほしい。

そう思った。

超短編アンソロジー『なんなの』も、そんな活字オバケ、あるいは「多くの作家や読者にとって、うれしい妖精であってほしい」。

文春文庫 司馬遼太郎『以下、無用のことながら』文藝春秋BOOKS 

http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167663131

(おわり)

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中